戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 「人殺しの心理」を取り扱った、言わずと知れた名著である。
 「人を殺せない人の心理」と言った方が、おそらくは適切であろう。
 原題は、
 On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society
 殺人による心理的代償を学問する、といった意味になるだろうか。
 概要はこうである。
 人が思うよりも、人は人を殺せない。
 さて、それについて掘り下げていこうと思っていたのだが、そんなものは私がいちいち語らずともamazonレビューや読書メーターを見ればよいのである。
 これがカスタマーレビューの一つも付かないような書籍であれば、私が評する意義も多少はあろう。しかしここは私の生来の適当さを遺憾なく発揮し、文を書き殴るだけの場である。ご了承頂きたい。

 では、本題に入ろう。
 少し前までの私は、新書の類いは概ね読む価値がない、と思い込んでいたところがあった。まあせめて、論文を大衆向けに書き改めたものであればその価値もあろうが、と斜に構えていたためだ。それは私の性根の悪さに由来し、自分でもほとほと困り果てているのだが、今更直しようがないので、話を進めよう。
 私はこの本を手に取った理由は、心理学に興味があったからでも、過激なタイトルに釣られたからでもない。むしろ、私は過激なタイトルは嫌悪してしまう方だ。
 単に、amazonレビューの評価が高かったためである。私は、私の自由意志と審美眼については、およそ、ほぼ、全くというほど期待していない。無名のものから普遍的価値のあるものを見いだせたことがないし、私が美しいと思うものを、他人はどうやらそれほど美しいと思わないようなのだ。この辺りに関しては私はもう諦めていて、そして、人生の時間は有限である。
 出版からある程度時間が経ち、それなりのレビュー数があり、なお高評価のものは、まあ大体いいものである。年間何万点もの出版物から当たりを引き当てるには、ある程度効率化もやむを得ないと思っている。良著を探し出して人々に広めるのは、商業的に読書をする本職の方に任せればいい。それが分業化・細分化・専門化により発展してきた人類の文明というものだ。それによって、おそらく私の感性は鈍化し続けるのが。
 そろそろ少しは内容に触れた方がよいだろうか。
 では、第三部「殺人の物理的距離【遠くからは友だちに見えない】」について。

 距離と攻撃性に関連があるというのは別に新しい発見ではない。犠牲者が心理的・物理的距離に近いほど殺人は難しくなり、トラウマも大きくなる。(P180)

 心理的・物理的距離――砲撃より狙撃、狙撃よりも拳銃、拳銃よりナイフ、ナイフより素手の方が、相手を殺しにくくなる。これらは経験則として知られていることらしい。ここで私はふと疑問に思う。
 では、なぜ人類はナガサキ以降、核兵器による同族への攻撃を行っていないのか? ということだ。
 心理的距離が遠いほど殺人が容易になるならば、人間はもっと核兵器を使ってもいいのではないか? なにせ、大陸間弾道弾は、砲撃とは比べものにならないほどの長距離から攻撃可能であるからだ。
 それについての答えは、この著書の中では記されていない。ヒロシマナガサキには確かに原爆が投下されたが、それ以降、今のところ、核兵器は用いられていない。
 政治上の高度な判断のおかげかもしれない。たかだか一世紀にも満たない期間の、ただ運が良かっただけのことかもしれない。
 しかし私は、こう思いたい。
 人類は、核兵器の恐ろしさを目の当たりにし、同族愛に目覚めたのだと。
 目覚めたという言い方はおかしいかもしれない。この本が記すところによると、元々人類は素手で他人を殺すのが非常に困難なほど、同族愛に溢れているからだ。
 私が言いたいのは、知識として愛に目覚めたということだ。
 強大な破壊の力が、知識として本能に働きかけているのではないか。知識は、ただ知っているというだけではなく、本能的な感情の部分にも強く訴えかけるのではないか。
 いや、そもそも知識と感情が切り離されている、という思い込みが誤りなのではないか。
 そしてこれは、核兵器に限らず、我々にも身近な、インターネットの世界にも通用する理屈なのではないか。
 顔を合わせた相手へ直接罵倒や否定を行うことはそれこそ非常に困難で、日本人であるならばなおさらそう感じるはずだ。
 しかしこれがネットというフィルターを通すことで、容易に攻撃性を発露することができるようになる。いや中には元から温厚でそんなことなどしない人や、ネットでは温厚なのに、閉鎖空間では凶悪な行動に出る人間も居ることだろう。
 それでも、私の身の回りを見る限りでは、ネットの方が攻撃性が高まりやすく、そして私もまたそういう人間であると言えるだろう。
 ネットの向こうの人間は、人間ではないから、攻撃しても心が痛まないのだ。
 ――そんなはずがない。
 知識として考えれば、人が居るからネットが存在するのだ。文字を打つ一人一人に人格が存在し、それぞれの人生を送っている。考えればと言ったが、こんなことは考えるまでもない。
 これらのメソッドによって、私は元来の攻撃性を抑えることに、いくらか、やや、ほんの僅かだけ、成功している。
 話が大分逸れた。そもそも心理学は、条件を僅かに変えるだけで再現実験に失敗する類のものだ。何にでも当てはめられるものではないし、本の趣旨でもない。私の戯れ言に過ぎないので、あまり深く追求はしないで欲しい。
 まあこのように回答の得られない疑問や、後半部における、エンターテイメントによる子供への影響など、賛同できかねる部分はいくつかあるが、それでも私は、この本の趣旨には概ね肯定するに至っている。
 しつこいようだが、賛同できる部分、目からウロコが落ちるような記述の部分については、私が語るまでもなくネット上に大量に転がっているし、何より自分の目で本を読んで確かめた方がいい。
 そもそも、書評という行為自体がナンセンスなのである。今のような時代においてはレビューや感想で十分であり、著者も書評など見せられたら怖気が走ることだろう。その点、訳書であれば著者と読者の「心理的距離」があるため、犠牲者も少なく済む。
 このロジックは、自分でも上手くできていると自画自賛する。

 最後に。なぜ私がこの本を肯定するに至ったかを述べる。
 果たして、デーブ・グロスマンが述べるところは真実なのだろうか。入念なフィールドワークを行ったように書かれているが、都合のいい捏造などはされていないか。アメリカ軍人がアメリカの側に立って言うことだから信じられない、などという意見もある。
 この本が示していることが人類の本質なのかどうか、私にはわからない。
 私には原文を読む語学力もなければ、それを読み解く教養もないからである。
 それでも私は、この本によっていくらかの疑問を解消することができている。

 なぜ、人殺しが人間社会において凶悪犯罪とされるのか。
 なぜ、屠畜行為が世界各地にて神事、生け贄などの祭事、また賤民として扱われるのか。
 なぜ、チャーチルが「ナポレオンが運命を左右することはなくなった」と言ったのか。
 なぜ、人はこれほど憎みあうのに案外最後の一線は越えないのか。
 なぜ、私は人を殴るべき時に殴れないのか。

 まるでジグソーパズルのピースが嵌まっていくように、それらは一つの絵を形作っていった。
 重ねて言うが、完成した絵が正しいかどうか、判断する術を私は持たない。
 私はただひたすらに納得せざるを得なかっただけだ。
 そして、こう述べてみれば、私と、私に連なる人類は、それほど正しさを重要視していないことが見えてくる。 
 信じるものは救われる。環境と幸運が我が身を後押ししてくれない人々は、信じることでその境遇に納得する。ただ念仏を唱えれば、極楽浄土に行ける。貧しさに喘ぐ人たちからすれば、それが最も納得できる理論だったのだろう。
 彼らは、私と同じである。
 彼らは私と同じ人類で、自らが最も納得できる理屈を信じているだけなのだ。
 このように、この著作は私に様々な発見をもたらし、なにより新書などは読む価値がない、という偏見を取り払ってくれた良著である。過激なタイトルも、危険な攻撃衝動に惹かれる一部の人たちに向けた、良い邦題であると思う。
 興味がない人にも是非読んで欲しいと思える、普遍的なテーマを備えた一冊である。

 さて、終わりになるが、私の根本的な勘違いについて、謝罪しておかなければならないことがある。
 カンのいい読者はとっくにお気づきかもしれないが、この本は、新書ではなく文庫である。