ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

 この本について私が語るところはほぼない。多くの解説書が出ていることだし、原典からの翻訳すらも専門家が人生の大仕事として取り組んだものである。
 そこで私が読み解くのは、破天荒爺さんの生き方を通して当時の世相と、現代に通じる思想を探し出すことである。『21世紀の資本』で時の人となったトマ・ピケティも、作中でこの手法を用いている。偉そうなことを言う時は、偉い人間の発言や手法を真似るのが最も効率的である。
 二千年前などという、半ばファンタジーの領域に足を突っ込んでいる時代の著作として読めば、多少の不都合にも目を瞑れる。現代ではジャン・ヴァルジャンは市長になれないのだから。
 まず。私も読むまでは知らなかったのだが、ソクラテスは「悪法も法」などと言っていないということである。むしろ、現代日本にて使われている文脈とは、全く逆の主張していると思われることだ。これについては他の詳しい誰かが解説しているので、深く突っ込むつもりはない。
 そして、「無知の知」という言葉も実はソクラテスは用いていない。ソクラテスが言ったのは「知らないと思っている」ということである。「知る/思う」の違いに何の違いがあるのだと思われるかもしれないが、「自分が無知だと知っている」という表現にしてしまうと、単純にパラドックスに陥ってしまうのである。知っているのならば無知ではないではないか。論理性を好む当時の哲学者なりのレトリックに過ぎないとは思うが、この辺りの認識についてはあまり人口に膾炙してないと思われるので、興味のある方は光文社古典新訳文庫の解説をお勧めする。
 さて、ソクラテスが口論で負け知らずだったのは、当時の専門家のレベルが低かったためではないか。細分化・専門化によりほぼブラックボックス化した現代の科学者と討論すれば、おそらくソクラテスは勝てないか、良くて負けを認めない程度であろう。何より現代の科学者は「わからないことはわからない」と当たり前のように無知の知を実践している。
 なんということだろうか! ソクラテスは、現代の定説であり、おそらく何万年、下手をすれば何億年も覆しようのない、暫定的な「この世の真理」に到達していたのである!
 私が神であったなら、きっとソクラテスにこう神託を下していたことであろう。
ソクラテスよりも賢いものはいない」と。
 どっとはらい
 それに、当時の専門家のレベルが低かったとはとても思えない。
 私は、ピタゴラスのように三平方の定理の新しい証明を発見したことがないし、黄金の王冠を壊さずに比重を調べる方法も思いつかないし、アルキメディアンスクリューの設計だってできやしない。数学を使って地球の大きさを測る方法だって調べなければわからないし、調べた手法が本当に正しいかどうか証明するにはまた何年も調べ物が必要になるだろう。(アルキメデスやエラトステネスはソクラテスより後の時代の人ではあるとはしても)
 どうだろうか? 今では地球が太陽の周りを回っていることは「当たり前」であるが、本当に地球が太陽の周りを回っていることをすぐに証明できる者は居るだろうか? 居るには居るが、そう多くはないと思う。いや、時間と空間は相対的なもので、地球は太陽の周りを回っていないかもしれないし、地球は一瞬で太陽の裏側まで行ってきて確率的に惑星軌道を描いているだけかもしれない。
 ともあれ、意外と自分は「知っている」と思ってしまうものである。「知らないと思っている」という自覚を持つためには、いかに魂の修練と克己心が必要になるか。それは、二千年前だろうと現代であろうと、あまり変わらないのではないかと思う。
 またソクラテスは愛とエロスの達人である。「ソクラテスの弁明」本文には明記されていないが、かの悪妻と名高きクサンティッペとは、四十歳もの歳の差があったと言われている。
 つまり、ソクラテスは「知っている」ものたちを論破して回る傍ら、若い嫁さんとパコパコして立派に子供をこさえていたのである。
 それは当時のアテナイの文化風土が許したからこそできたことではあろうが、つまり、人間は若い嫁さんとパコパコ「できない」わけではないということを示している。
 逆に言えば婆さんが若い旦那とパコパコしたっていいだろうし、自分が知らないだけでそういう例も相当数あることだろう。
 犯罪はよくないが、悪法ならば主権たる国民の手によって是正していくのが民主主義国家・法治国家であるし、自らが愛する国家の正しい法律ならば、ソクラテスのように「正しい生き方」をして従えばよいのである。
 最後である。
 ソクラテスは誇りあるアテナイ市民として、「人々をムカつかせた罪」により国家に殉じることとなったが、その後、アテナイ市民は偉大なる賢人を失ったとして、大いに悲しんだ。
 果たしてどうだろうか。ソクラテスの時代から二千数百年経った現代で、ただ不快だという理由で特定の個人、特定の集団を排斥し、追い込み、潰すことで、「ああ平和になった」と溜飲を下げて満足している国家・文化圏など、まさか存在するはずがないのだが、もし存在するとすれば。
 そこに住む民は、折を見て紀元前の哲学者の生き方に触れてみるのも、悪くないのではないだろうか。

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

 

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

承認欲求―「認められたい」をどう活かすか?

 

 

 いつ頃からか「承認欲求」という言葉が巷を席巻している。その使われ方も多くは、「構ってちゃんをイワしたる・マウントしてくる奴に反撃したい」ために用いられるか、もしくは、それが転じて、「敢えて自虐的に承認欲求を主張することで謙遜を表す」、大別すると大体この二種類に分類できるのではないかと思う。
 まあ私がtwitterなどで検索した限りの印象なので、違うと思われる方はブラウザの戻るボタンを押すべきである。わざわざ不快になる文章を読む必要などどこにもない。
 前置きはまだまだ続くが、私は本の中身について語る気など毛頭なく、文章の練習に主眼を置いているので、内容が知りたい方はkindleunlimitedで0円で読むか、amazonレビューなどで読んだつもりになっておけばよい。
 さて、「承認欲求」について。そもそも私はこの言葉が大嫌いである。他人に認められたいという欲求がない者は、社会と距離を置き、最低限の生存に関わる部分だけ社会と接して生きていけばよい。事実そうしている者も少なからず居るだろうし、宝くじが当たれば社会からドロップアウトする、という意見もよく聞く言葉である。
 承認欲求を悪しきように言うことは、つまり、そういう者になれ、と言っているようなものである。私は社会と文明の利器から大いに恩恵を受けており、そういう者が多数派になった未来など、全く暗黒の時代であるとしか思えない。まあ私自身も社会のあぶれ者であるので、少数派ならば全然構わないとは思う。
 実態の伴っていないアピールに腹が立つ、という意見もあるだろう。しかし、うわべだけの人間などそうそう認められるものでもないし、ハッタリであろうと支持されればそれは彼らにとっての真実なのである。
 ではなぜここまでこの承認欲求という言葉が持て囃されるのか? それについては私はあまり興味が持てないし、分析する気力も起きないので、ストロングゼロでも飲んで寝た方がマシである。
 散々な言いようではあるが、最近はこの言葉が人口に膾炙するあまり、謙遜の意味で用いられることが増えてきたように思われるので、それ自体は、良い傾向であると感じている。

 では、本文について少しだけ。
 なお、なぜこの著書を取り上げたかについては、wikipediaで引用文献とされていたからである。私の不満の捌け口とされた著者には、ただただ憐憫の情を申し上げる。

 日本人こそ、世界でも指折りの「承認人」なのである。(Kindleの位置No.286)

 では、「偉くなりたいか」という質問に対して、「強くそう思う」と答えた者は中国では三四%、アメリカや韓国でも二二%強も存在するのに対し、日本ではわずか八%である(Kindleの位置No.627-629)

 言ってることと調査内容が逆で脳が疲労する。誰も読まない文章を書いてる空しさが倍増してたまらない。
 いやまて。これは高度なレトリックか何かで、著者はもしかしたら「ストロングゼロでも飲んで寝ろ」と人生の先輩として教訓を伝えてくれているのかもしれない。もう少し読み進めよう。

 これらの調査結果にも表れているように、日本人は長期の承認である〈キャリアの承認〉より、短期の承認である〈日常の承認〉を重視する傾向が強い。(Kindleの位置No.637-639)

 一応このような補足もあるので、まあ到底納得できない理屈ではあるが、悪いのは私の品性の下劣さであり、著者は全く悪くない、と擁護しておきたい。

 しかし、人間はいつまでも〈日常の承認〉だけで満足していることはできない。一般に年齢が上がって経験を積み重ねるにつれて、現在の刹那的な喜びや満足だけではもの足りなくなり、自己実現や成長実感といった内面的な充実感、あるいは社会のために役立っているという満足感を求めるようになる。また、そうした充実感、満足感を得るためにも社会からの尊敬や信頼、それにキャリアアップやある程度の出世が必要になってくる。つまり、人間的にも能力的にも成熟度を増すにつれて長期的な承認が重要になるわけである。(Kindleの位置No.915-920)

 日本は高齢化社会であるため、やはり前述の調査内容と矛盾しているように思える。
 ただただ、読み進めるのが辛い。この本はもしかして私が封じ込めようと努力している自分の露悪趣味を再認識させるための自己啓発本なのだろうか?
 とりあえず読み進めてみたが、あまり共感や納得の得られる理屈は見られなかった。
 そもそも私は心理学というものを大概信用していないのである。
 信用していないからこそ、それをひっくり返すような、納得できる理屈を求めているのである。
 二つ続けて心理学についての書評になってしまったことはまさに、その裏返しである。
 amazonレビューでは概ね好評であるし、これ以上語っても自分が間違っているのではないかという被害妄想に囚われそうなので、この辺りで締めにしたい。

 最後に、ある講演の動画を紹介しよう。

 デレク・シヴァーズ 「目標は人に言わずにおこう」
https://www.ted.com/talks/derek_sivers_keep_your_goals_to_yourself/transcript?language=ja
 目標を人に話し 認めてもらうと それが一種の― 社会的現実になることに 心理学者は気づきました もう実現したかのように 心が錯覚してしまうのです(Translated by Yasushi Aoki)

 実験やフィールドワークを通して、日本人が美徳とする「奥ゆかしさ」をアメリカ人が獲得しているのを見ると、なんともはや、としか言いようがない。

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

 

 「人殺しの心理」を取り扱った、言わずと知れた名著である。
 「人を殺せない人の心理」と言った方が、おそらくは適切であろう。
 原題は、
 On Killing: The Psychological Cost of Learning to Kill in War and Society
 殺人による心理的代償を学問する、といった意味になるだろうか。
 概要はこうである。
 人が思うよりも、人は人を殺せない。
 さて、それについて掘り下げていこうと思っていたのだが、そんなものは私がいちいち語らずともamazonレビューや読書メーターを見ればよいのである。
 これがカスタマーレビューの一つも付かないような書籍であれば、私が評する意義も多少はあろう。しかしここは私の生来の適当さを遺憾なく発揮し、文を書き殴るだけの場である。ご了承頂きたい。

 では、本題に入ろう。
 少し前までの私は、新書の類いは概ね読む価値がない、と思い込んでいたところがあった。まあせめて、論文を大衆向けに書き改めたものであればその価値もあろうが、と斜に構えていたためだ。それは私の性根の悪さに由来し、自分でもほとほと困り果てているのだが、今更直しようがないので、話を進めよう。
 私はこの本を手に取った理由は、心理学に興味があったからでも、過激なタイトルに釣られたからでもない。むしろ、私は過激なタイトルは嫌悪してしまう方だ。
 単に、amazonレビューの評価が高かったためである。私は、私の自由意志と審美眼については、およそ、ほぼ、全くというほど期待していない。無名のものから普遍的価値のあるものを見いだせたことがないし、私が美しいと思うものを、他人はどうやらそれほど美しいと思わないようなのだ。この辺りに関しては私はもう諦めていて、そして、人生の時間は有限である。
 出版からある程度時間が経ち、それなりのレビュー数があり、なお高評価のものは、まあ大体いいものである。年間何万点もの出版物から当たりを引き当てるには、ある程度効率化もやむを得ないと思っている。良著を探し出して人々に広めるのは、商業的に読書をする本職の方に任せればいい。それが分業化・細分化・専門化により発展してきた人類の文明というものだ。それによって、おそらく私の感性は鈍化し続けるのが。
 そろそろ少しは内容に触れた方がよいだろうか。
 では、第三部「殺人の物理的距離【遠くからは友だちに見えない】」について。

 距離と攻撃性に関連があるというのは別に新しい発見ではない。犠牲者が心理的・物理的距離に近いほど殺人は難しくなり、トラウマも大きくなる。(P180)

 心理的・物理的距離――砲撃より狙撃、狙撃よりも拳銃、拳銃よりナイフ、ナイフより素手の方が、相手を殺しにくくなる。これらは経験則として知られていることらしい。ここで私はふと疑問に思う。
 では、なぜ人類はナガサキ以降、核兵器による同族への攻撃を行っていないのか? ということだ。
 心理的距離が遠いほど殺人が容易になるならば、人間はもっと核兵器を使ってもいいのではないか? なにせ、大陸間弾道弾は、砲撃とは比べものにならないほどの長距離から攻撃可能であるからだ。
 それについての答えは、この著書の中では記されていない。ヒロシマナガサキには確かに原爆が投下されたが、それ以降、今のところ、核兵器は用いられていない。
 政治上の高度な判断のおかげかもしれない。たかだか一世紀にも満たない期間の、ただ運が良かっただけのことかもしれない。
 しかし私は、こう思いたい。
 人類は、核兵器の恐ろしさを目の当たりにし、同族愛に目覚めたのだと。
 目覚めたという言い方はおかしいかもしれない。この本が記すところによると、元々人類は素手で他人を殺すのが非常に困難なほど、同族愛に溢れているからだ。
 私が言いたいのは、知識として愛に目覚めたということだ。
 強大な破壊の力が、知識として本能に働きかけているのではないか。知識は、ただ知っているというだけではなく、本能的な感情の部分にも強く訴えかけるのではないか。
 いや、そもそも知識と感情が切り離されている、という思い込みが誤りなのではないか。
 そしてこれは、核兵器に限らず、我々にも身近な、インターネットの世界にも通用する理屈なのではないか。
 顔を合わせた相手へ直接罵倒や否定を行うことはそれこそ非常に困難で、日本人であるならばなおさらそう感じるはずだ。
 しかしこれがネットというフィルターを通すことで、容易に攻撃性を発露することができるようになる。いや中には元から温厚でそんなことなどしない人や、ネットでは温厚なのに、閉鎖空間では凶悪な行動に出る人間も居ることだろう。
 それでも、私の身の回りを見る限りでは、ネットの方が攻撃性が高まりやすく、そして私もまたそういう人間であると言えるだろう。
 ネットの向こうの人間は、人間ではないから、攻撃しても心が痛まないのだ。
 ――そんなはずがない。
 知識として考えれば、人が居るからネットが存在するのだ。文字を打つ一人一人に人格が存在し、それぞれの人生を送っている。考えればと言ったが、こんなことは考えるまでもない。
 これらのメソッドによって、私は元来の攻撃性を抑えることに、いくらか、やや、ほんの僅かだけ、成功している。
 話が大分逸れた。そもそも心理学は、条件を僅かに変えるだけで再現実験に失敗する類のものだ。何にでも当てはめられるものではないし、本の趣旨でもない。私の戯れ言に過ぎないので、あまり深く追求はしないで欲しい。
 まあこのように回答の得られない疑問や、後半部における、エンターテイメントによる子供への影響など、賛同できかねる部分はいくつかあるが、それでも私は、この本の趣旨には概ね肯定するに至っている。
 しつこいようだが、賛同できる部分、目からウロコが落ちるような記述の部分については、私が語るまでもなくネット上に大量に転がっているし、何より自分の目で本を読んで確かめた方がいい。
 そもそも、書評という行為自体がナンセンスなのである。今のような時代においてはレビューや感想で十分であり、著者も書評など見せられたら怖気が走ることだろう。その点、訳書であれば著者と読者の「心理的距離」があるため、犠牲者も少なく済む。
 このロジックは、自分でも上手くできていると自画自賛する。

 最後に。なぜ私がこの本を肯定するに至ったかを述べる。
 果たして、デーブ・グロスマンが述べるところは真実なのだろうか。入念なフィールドワークを行ったように書かれているが、都合のいい捏造などはされていないか。アメリカ軍人がアメリカの側に立って言うことだから信じられない、などという意見もある。
 この本が示していることが人類の本質なのかどうか、私にはわからない。
 私には原文を読む語学力もなければ、それを読み解く教養もないからである。
 それでも私は、この本によっていくらかの疑問を解消することができている。

 なぜ、人殺しが人間社会において凶悪犯罪とされるのか。
 なぜ、屠畜行為が世界各地にて神事、生け贄などの祭事、また賤民として扱われるのか。
 なぜ、チャーチルが「ナポレオンが運命を左右することはなくなった」と言ったのか。
 なぜ、人はこれほど憎みあうのに案外最後の一線は越えないのか。
 なぜ、私は人を殴るべき時に殴れないのか。

 まるでジグソーパズルのピースが嵌まっていくように、それらは一つの絵を形作っていった。
 重ねて言うが、完成した絵が正しいかどうか、判断する術を私は持たない。
 私はただひたすらに納得せざるを得なかっただけだ。
 そして、こう述べてみれば、私と、私に連なる人類は、それほど正しさを重要視していないことが見えてくる。 
 信じるものは救われる。環境と幸運が我が身を後押ししてくれない人々は、信じることでその境遇に納得する。ただ念仏を唱えれば、極楽浄土に行ける。貧しさに喘ぐ人たちからすれば、それが最も納得できる理論だったのだろう。
 彼らは、私と同じである。
 彼らは私と同じ人類で、自らが最も納得できる理屈を信じているだけなのだ。
 このように、この著作は私に様々な発見をもたらし、なにより新書などは読む価値がない、という偏見を取り払ってくれた良著である。過激なタイトルも、危険な攻撃衝動に惹かれる一部の人たちに向けた、良い邦題であると思う。
 興味がない人にも是非読んで欲しいと思える、普遍的なテーマを備えた一冊である。

 さて、終わりになるが、私の根本的な勘違いについて、謝罪しておかなければならないことがある。
 カンのいい読者はとっくにお気づきかもしれないが、この本は、新書ではなく文庫である。